🔍 古語拾遺の完全訳
磐余稚桜の御時代 推定される年代は、西暦300年代。( ⇱ 新ウインドウで解説LINKあり) 『神武天皇』の後継天皇の代で少しずつ、財政管理が整っていく様子。 ・ ・【原文と直訳】(三韓貢獻)
至於後磐余稚櫻朝 三韓貢獻 奕世無絶 齋藏之傍 更建内藏 分收官物 仍 令阿知使主與百濟博士王仁 計其出納 始更定藏部
後磐余稚櫻朝に至り 三韓の貢献 奕世に絶えず 齋蔵の傍に内蔵を建て 官の物を分け収める 仍って 阿知使主と百済の博士王仁に出納を計らせ 蔵部を新たに定める
なんか表現が古くありません? 私の頭では、意味がよくわからないです…… |
後の磐余稚桜の御時代においては、三韓(新羅、百済、高句麗)からの貢献が代々続き、これらの国々からの朝貢が、我が国の繁栄に大いに寄与しました。 そのため、斎蔵、すなわち神宝を保管する御倉庫の隣に、内蔵という新たな御倉庫を建設し、官物を分けて収納することになったのです。 さらに、漢の阿智王様(後漢・霊帝の子孫)と百済の博士王仁様を任命し、収入と支出の計算を管理させることになりました。 これにより、蔵部の再編成が始まり、財政管理の効率化と透明性の向上を図ることができたのです。
📼 作者の斎部廣成 一人語り風
磐余稚桜朝というのは、履中天皇の時代の都ですな。 現在の奈良県桜井市の宮とされております。 履中天皇は日本の第9代天皇(古墳時代の天皇のため、伝説と歴史が混在している)のため、時代が古すぎて、在位期間は不明ですな。 推定される年代としては、西暦300年代と思われますので、『神武天皇』の後継天皇の代で少しずつ、財政管理が整っていくのがわかりますな。
🎓 『古語拾遺』を理解する、分かりやすい解説
古代日本における ヤマト政権 の形成と発展の様子。 ◆宮殿の建設最初の重要なステップは、宮殿の建設。 これにより、政治の中心と、大会議の集合場所が確立され、ヤマト政権の権威が形成されました。
信頼できる部下を政府の内外に配置し、政治の基盤を固めました。 地方平定は、武力衝突を避け、国譲りの粘り強い交渉を中心としました。 地方豪族の支配権が派遣した部下に移った後は、中央政権を地方から支えます。 これにより、中央集権的な統治体制が徐々に形成されていきました。
国の発展を促進するため、海外からスーパーエリートを呼び寄せました。 例えば、弓月君は、絹の機織りの新しい技術を日本に伝えました。 阿智王は、文筆に優れており、東漢氏の祖先とされています。 王仁は、「論語」や「千字文」など中国の優れた文章を持ちこんだとされています。 これらの知識人は、技術、文化、政治制度など、多岐にわたる分野で貴重な知識をもたらしました。
東日本の豪族や小国家も徐々に支配下に置き、国内の統一を進めました。 政権の影響力は、最大で〝陸奥〟まで届きます。 ちなみに北海道は〝蝦夷地〟なので外国でした。 沖縄も〝琉球王国〟なので、外国でした。