🔍 古語拾遺の完全訳【第3部】
『古語拾遺』ここからは【第3部】の 歴代天皇の治世 に入ります。 【原文の構成】・ ・【序文】 … 奈良の現状を嘆く 【第1部】 … 先祖の古文書の書き写し 【第2部】 … 宮殿建設〜ヤマト政権スタート 【第3部】 … 歴代天皇の治世 【第4部】 … 中臣氏の権力増大に対する警告 【第5部】 … 大国主命と卑弥呼のエピソード 【結び】 … 天皇個人に宛てた結び
【原文と直訳】(神武天皇の治世)
至于 磯城瑞垣朝 漸畏神威 同殿不安 故 更令齋部率 石凝姥神 裔 天目一筒神 裔二氏 更鑄鏡造釼 以爲護御璽 是 今踐祚之日 所獻神璽鏡釼也 仍 就於倭笠縫邑 殊立磯城神籬 奉遷 天照大神 及 草薙釼 令 皇女 豊秋鍬入姫命 命奉齋焉
磯城瑞垣の朝に至り 漸く神威を畏れ 同殿に安らぐこと能わず 故に 更に齋部を率い 石凝姥神の裔と 天目一筒神の裔の二氏に 新たに鏡と釼を鋳造せしめ 護御璽となす これ 今の踐祚の日に獻げる神璽鏡釼なり 仍って 倭笠縫邑に就き 磯城の神籬を特に立て 天照大神及び草薙釼を奉遷す 皇女 豊秋鍬入姫命(卑弥呼)に奉齋せしむ
其遷祭之夕 宮人皆參 終夜宴樂 歌曰
その遷祭の夕には 宮人皆が参加し 終夜宴楽を行い 歌う 曰く
🗣「美夜比登能・於保與須我良爾・伊佐登保志・由伎能與呂志茂・於保與須我良爾」 《今俗哥曰 美夜比止乃・於保與曾許志侶茂・比佐止保志・由伎乃與侶志茂・於保與曾許侶茂 詞之轉也》
🗣「宮人の・おお世すがらに・いざ遠し・雪の宜しも・おお世すがらに」 《今の俗での歌は 「宮人の・大凡頃も・久遠し・雪の宜しも・大凡頃も」となっており 詞の転じたものである》
又 祭八十萬群神 仍 定 天社 国社 及 神地 神戸 始令 貢男弭之調 女手末之調 今 神祇之祭 用 熊皮 鹿皮 角布等 此縁也
又 八十萬の群神に祭りを行い 天社国社及び神地 神戸を定める 始めに貢男弭之調 女手末之調を令する 今の神祇の祭りには 熊皮 鹿皮 角布等を用いる これがその縁なり
なんか表現が古くありません? 私の頭では、意味がよくわからないです…… |
磯城瑞垣(神武天皇の〝水のお堀〟で囲まれた城のこと)において、朝が明ける(火山噴火の鎮魂の議、直後の時期)と、陛下は神々の力に深い畏怖を抱き、神々と同じ殿堂に共に過ごしていたことに一抹の不安を覚えました。 そこで、斎部氏に特命が下され 石凝姥神 と 天目一筒神 のご子孫であられる二つの尊い氏族に、新たな鏡と剣の製作が委ねられたのです。 これらの神聖なる神器は、当時の皇室を守護するために製造され、現在の天皇陛下の即位の儀にも用いられております。 その後、大和笠縫邑に新たな神域(奈良県桜井市の檜原神社のこと)が設けられ、そこに 天照大神 と 草薙の剣が移されました。 皇女である 豊秋鍬入姫命(卑弥呼)には、その地で祭祀を執り行うようにとのお達しがございました。 移転の夜、宮廷の方々が集い、一晩中の宴会と楽しみを催されました。彼らに対して陛下はこのような歌を歌われました
🗣「宮人の・おお世すがらに・いざ遠し・雪の宜しも・おお世すがらに」宮廷に遣える人々よ。自戒を込めてよう聞いてくれや。 君たちもな、そのきらびやかな生活がず〜っと続くようにしたいならな 雪のような清らかな心、皆も忘れんと、いつまでも持ち続けなあかんで。
さらに、八百万の神々のための祭りが始まり、天の神社、国の神社、土地の神社と神門(鳥居のこと)が設立されました。 これにより、感謝のお賽銭(御玉串料)として、男性が貢物を持ち寄り、女性が織物を献上する習慣が生まれました。 現在の神々への祭りでは、熊の皮、鹿の皮、角の布などが使われ、これは古い伝統から来ているのです
📼 作者の斎部廣成 一人語り風
〝磯城の地で夜が明ける〟とは、例の『天岩戸』の儀式の直後に空に光が戻り、さすがの陛下も『天の神様』の力にビビらはったということですな。 なので、これまでより『神への敬意』を高めなければ! と、近くの〝笠縫いの村〟の土地に、伊勢の神の分社を建て、天照大神の御霊を呼び寄せるとともに、霊剣である 草薙の剣を奉納したのですな。 ちなみに『日本神話』では、この 草薙の剣は、やまたのおろち伝説のときに手に入れた(罰として追放になった素戔嗚尊がおろちを退治して尾から見つけた)となっておりますが、この剣は神武天皇が東征の最後に、熊野の高倉下殿より譲り受けた横刀のことでございます。 この横刀があまりにも素晴らしすぎる霊剣であったため、あとから霊剣のための伝説が〝素戔嗚尊〟&〝日本武尊〟の2つも作成された……というのが真相なのでございます。 ・ ・ 〝八百万の神々のための祭り〟という部分にも、真相の解説が必要でしてな。 これは文字通りに解釈するのではなく〝八百万の神々〟とは一般の民衆のことを指すのですわ。 つまり、この時代の文官が言う〝神々〟とは〝人々〟に対する『敬意を持った呼び名』の意味で使われることも多く、書いてある文字をそのまま読むだけだと、とんでもない誤解を招いてしまうということですな。 意外に思われるかもしれませぬが、陛下は貴族や豪族相手だけでなく、一般の民衆に対しても敬意を持って接しておりましてな、今の世で〝料理の達人〟への最上級の表現として〝料理の神〟と呼ぶのと同じように、当時もまた、〝民衆の皆々様方〟への最上級の表現としては〝八百万の神々〟と呼んでらしたのです。 背景には、人々は〝神の分け御霊〟という考え方があったので、神への敬意は、人への敬意でもあったのです。 そのため、ここで言う〝八百万の神々のための祭り〟が始まって、天の神社、国の神社、土地の神社と神門が設立されたとは、本物の神の威光を、橿原宮だけでなく、日本各地の皆にも受け取ってほしいとの意から……。 そして祭りは、『天岩戸開き』のときの最後、わちゃわちゃしたお祭り状態が神様に効いた!! と解釈され、その「わちゃわちゃした祭りごと」を各地に推奨し、神様に喜んでいただこうとのご配慮でした。 土地の人々のための祭り。すなわち全国各地で行われる『〇〇祭』の由来は、『天岩戸開き』のときの最後、わちゃわちゃしたあの出来事から来ているのですな。 『神武天皇』が名君であられたのは、常に自分の言動を〝天の神様に見られている〟という意識からくるものだったのですな。 神の意を実行に移すという天皇政治が『政治的パフォーマンス』ではなく、本気のものだったことが、このエピソードからうかがい知れることと思います。