🔍 古事記が面白おかしく読める訳


神武天皇が〝神〟となった日
  【古事記の本当の物語は、神武天皇から始まる】
 ►… 高千穂 ・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・- ・ 神武天皇が高千穂の地に降り立った ・ その地で子ども誕生(長女・長男) ・ 熊襲を撃退後、東征開始  ►… 東征中(45歳で東征開始) ・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・- ・ 吉備に滞在中、スサノオの子(天孫)  ►…〝ヤマト政権〟のスタート ・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・- ・ 大王様、奈良に宮殿を造り、大王宣言! ・ 部下を地方の主に据え、稲作等を指導(名君) ・ 出雲だけ落ちない。スサノオ(長男)仕事せず ・ 卑弥呼(長女)が来て、出雲の国譲り成功 ・ 火山噴火。天岩戸隠れ(太陽が噴煙で消える)
時間軸に沿った、事実の流れはこう。
【推定される年代】(西暦100年代)
西暦 推定年齢 出来事
 ►… 高千穂
160年頃 30代  ・ 神武天皇が高千穂の地に
 ・ その地で子ども誕生   ↳ (長女・長男)
 ►… 東征開始(45歳で東征開始)
170年頃 40代  ・ 筑紫の岡田宮
 ・ 阿岐国(広島県)の多祁理宮
180年頃 50代  ・ 吉備(岡山県)の高嶋宮   ↳ おのころ島の王族
 ►…〝ヤマト政権〟のスタート
190年頃 60代  ・ 奈良宮殿に豪族代表者を集め天皇宣言
 ・ 部下を地方豪族の主に据える   ↳ 出雲は素戔嗚尊が担当
 ・ 出雲だけなかなか落ちない   ↳ 姉上が応援に来る
 ・ 出雲の国譲り成功
200年頃 70代  ・ 大規模火山噴火
『古事記』とは、神である『神武天皇』にまつわる事実をモチーフにした、英雄伝説の物語。 その物語化にあたって、『本物の神名』を役名にあてて、皇族や側近たちの偉業をこの『祭祀の典籍』に記録した。
神武天皇……伊邪那岐イザナギ・高木神など)の役名 卑弥呼……(天照大神・肱巫こうなのみこ倭姫命ヤマトヒメノミコトなど)の役名
『天孫』であるお孫様ニニギも、本当は高千穂に舞い降りた『神武天皇』本人のこと。 ❆ 天邇岐志アメニギシ 国邇岐志クニニギシ 天津日高日子アマツヒダカヒコ 番能ホノ 邇邇芸ニニギ   ↳ 天握しく・国握し・天津日高彦     万能の・天もる国もる皇(ニニギ) いかにして、物語が作られたか? それは、『古語拾遺』(神話の謎解き編)で!

📓 古事記の英雄伝説(神武天皇)

『古事記』英雄伝説(神武天皇) 「従正五位上」官位 太 安万侶おおの やすまろ (奈良時代)


登場人物二人の整理

『神武天皇』……神倭伊波礼毘古命カムヤマトイハレビコノミコト 「兄」……彦五瀬命ヒコイツセノミコト

さてさて、こちらのお話は、神倭伊波礼毘古命カムヤマトイハレビコノミコトとそのご兄者彦五瀬命ヒコイツセノミコトの会話でございますな。 まずはこの二人、高千穂宮で大事な議論をなさったわけですわ。 話の内容は「どの地なら、天下の政治を平和に治められるか」ってことだったとか。 で、結果として、東への出発を決めたんですな。 出発の地として選ばれたのは「日向の地」 そこからまずは「筑紫の地」へと向かわれたわけです。 途中、「豊前宇沙」で地元の有力者が、陛下ご一行のために一社騰宮あしひとつあがりのみやをわざわざ新築して、心温まるおもてなしをしたそうな。 その地から移動した後は、筑紫の岡田宮に1年滞在しました。 その後の旅路では、阿岐国(広島県安芸郡)多祁理宮たけりのみやに7年、吉備の高嶋宮(吉備の児島・おのころ島のこと)に8年と、長いこと滞在されたわけですな。 長いとはいっても、遊んでいたわけではありませぬ。 この地の近辺の有力者と、次々と和平を結び、「ご恩と奉公」 鉄器や、織物、稲作技術などを渡して「恩義」を与え、受け取った側は、自らの兵や有能な部下をお供にさせることで、大王軍に忠誠を尽くす このように、大王軍は敵を蹴散らしながら侵攻したのではなく、少しずつ味方を増やしながら、雪だるま式に勢力を強め、少しずつ東に向かわれたのですな。 最初は、お椀に乗ってやって来た、少ない勢力の『一寸法師隊』でありましたから、自らの軍だけではすぐに壊滅してしまうわけです。 ですから、途中の経由地では、行く先々で「恩義」を与え、味方を増やし、兵を増やし……。 大王様の通った後の地は、枯れ木に花が咲く『花咲かじいさん』のように、行く先々の木に花を咲かせながら、少しずつ奈良の地を目指したのでございます。   ・    ・  この間に、ご子息の若君も身体が大きくなりましてな、吉備の高嶋宮では、『おのころ島』の王族の姫君との間に『天孫・家光様』がお生まれになりました。 大王様から見れば、かわいいお孫様。 しかし、大王様と若君は、生死を賭けた危険な旅を続けることになりますので、お孫様は、安全な『姫路』(阿岐国)の地の姉上様が預かることとなりました。 高嶋宮を後にされた時、陛下は龜甲を釣り具として使い、打羽擧様という方にお会いになられたそうです。 この方が瀬戸内海の海の道をご存じだと。 瀬戸内海は、潮の流れが複雑な海域でありますから、安全に進める海の道、泡の路を知る者が必要でございます。 そこで陛下は、この方のことを槁根津日子と名付け、舟を進める従者として雇ったのです。 この方が後の『倭国造の祖』になるのですから、運命とは不思議なモノですな。   ・    ・  陛下ご一行はさらに旅を続け、浪速の渡しを経て、いよいよ陸路に上がります。 そこで早速、青雲の白肩津で敵軍の待ち伏せに遭遇いたしました。 戦いの最中、兄の五瀬命が敵の矢で負傷したとか。 神武天皇陛下は勇敢にも 「日の神の子孫である我らが、日に向かって戦うのは好ましくない。背中に日を見て戦おう」 と命じられたのだとか。 そして南から回り込んで、その後、紀国の男水門に到着。 ここで「敵が襲ってきたら、この手で敵を討つ」と陛下が力強く宣言されたそうな。 熊野村に到着した時、大熊が現れて陛下の髪を奪い去り、一目散に退散したとのこと。 髪を奪ってどうする? とお思いでしょうが、狙われたのはお命。 首を狙われたところを間一髪、避けることが出来て、狙いが外れて髪を切るのみに終わり、一目散に逃げたとのこと。 なんとも危機迫る出来事ではございましたが、これにて陛下の天軍は縦に長く伸びて、周りを警戒されながら身を潜めて進軍されたそうです。 これを見ておわかりのように、甘い顔をしていては、天下を取る前に自分が倒れてしまうのです。 ですから、向かってくる敵には、勇敢に立ち向かわなければなりません。 この時、熊野の地で味方となった高倉下様が一本の横刀を持って神武天皇様のもとに来られ、それを献上されました。 受け取った神武天皇は、 「この武器にとっては、長い眠りであったな。今こそ、この武器が目覚めるときだな」 とおっしゃいました。(その剣が下の絵の腰刀) 【神武天皇】 神武天皇 💻 引用元LINK……橿原神宮 基本的には、和平が一番。しかし、向こうから襲ってくる敵もいる。奇襲を受けたら大王軍が命を賭けて大王様を守り抜く。 奈良の地にたどり着くまでは、幾度か危険な目にあっていたのです。 神武天皇は天の神様から、奥方への進行は控えるように警告されました。荒神が多く、危険だからです。 そこで、天から遣わされた八咫烏が道案内をし、神武天皇はその後を追って吉野河に到着しました。 そして最後の敵が、忍坂大室の土雲。 このときは、頭脳戦が用いられ、神武天皇は彼らに饗宴をほどこしました。 それぞれが刀を脇に置き、酒を飲んで歌が始まり、眠りについたところで、それが永遠の眠りとなったのでした。 この熊野の話が後に、やまたのおろち伝説のモチーフ(おろちに酒を飲ませて寝首を掻き、シッポから一本の横刀を譲り受ける)に採用されるのですな。 物語は、このように事実が形を変えて、形成されるのですぞ。   ・    ・  その後、天の神様は、神武天皇に啓示を送りました。 その後大王様は、『天の意志に従って、高らかに天皇宣言』(大祓詞の冒頭部のこと)をなされたのです。 神武天皇は平和をもたらし、荒夫琉神などの反逆者を退け、白檮原宮で天下を治めました。 なんとも壮大な武勇伝でございました。

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